あかつきに啼く雲

(前略)


 その人の第一印象がどんなものだったか、あまり覚えていない。

 界境防衛機関という組織がどのようなものであるかを正しく認識出来るようになった頃には、その人はすでに界境防衛機関の顔としてテレビや雑誌に頻繁に出ていた。だから周りの同級生と同様に、暗黙のヒーローとして認識していたのだと思う。三門市の子供からしてみれば、作られた戦隊物のヒーローなんかよりも輝いていて、憧れる存在なのだ。

 界境防衛機関A級部隊・嵐山隊隊長、嵐山准。三門市では誰でも知っているヒーローの名だ。

 初めて対峙したあの時までは、ぼんやりとした憧れや尊敬の念を抱いていたのだと思う。それは界境防衛機関による刷り込みにも近い感覚だったのだろう。それでも疑問を抱かずに受け入れるだけの素質が嵐山にはあったのだろう。それは実際に話してみて、関わり合いを持っても変わらない印象だった。誰に対しても優しく、情に厚く、市民を守るという意識が強いのだと、わざわざ言葉に表さなくても、常に体で表していた。

 だから今までの漠然とした憧れは、はっきりとした形を持って修の中に落とし込まれた。

 B級に上がって、大規模侵攻を乗り越えて、多くの界境防衛機関隊員とかかわりを持つようになって、憧れて背中を追いかける存在は増えたけれども、その中でも常に意識し続ける存在として嵐山は居た。

 A級だからと他者を軽んじる事など無く、逆にどのような人に対しても気さくに分け隔てなく接する嵐山に惹かれていくのは無理のない話だった。本部ですれ違えば必ず声を掛けてくれるし、時間があればランク戦の感想を伝えてもくれた。A級がB級のランク戦を観戦するという事自体珍しいのに、新規入隊の処理に忙しい時にわざわざ観戦して、その総評を伝えてくれた時には感謝以外の言葉が出なかった。

 今日だってまだ新規入隊の処理に追われているにも関わらず、射撃戦の特訓を丁寧に行ってくれた。一人でも点を取れる方法、相手の防御を外す方法、射程の取り方、一日ですべてマスターするには難しいが、ワンランク上へ行くための足掛かりを得ることが出来た。

 一通り射撃戦での要点を教わったところで、特訓は終了となった。嵐山と共に特訓に付き合ってくれた時枝と、何故かずっと特訓を見ていた木虎がトレーニングルームを退室し、室内には修と嵐山のみが残る。

「どうだったかな三雲くん。自身の手ごたえとしては」

「そうですね…とても勉強になりましたが、まだまだ使いこなすとなると難しそうです」

「それはそうだろう。それに、教えてすぐに出来るようになってしまったら教える側の立場が無いからな。…なんてな」

 冗談だ、と言って嵐山は小さく笑った。その表情は普段見るものとは違くて、修は少し違和感を覚えたが、確信が持てる訳でもなく、その事には触れずに話を続けた。

「村上先輩はそういう事多そうですけどね」

「鋼は特異だからな。前回の試合では直接当たる事は無かったが、対岸に転送されて直接対決の場が与えられたらどうしていた

「そうですね…村上先輩には射程を活かした攻撃が有利だと事前データから作戦を練っていたので、距離を取りつつ当てていく戦術で行ったと思います」

 試合前に立てた作戦では攻撃手の間合いに入らず、射手の射程を活かして削っていく戦法を立てた。攻撃地で言えば攻撃手が高いのは言わずもがななので、その差をカバー出来る応用力の豊富な射手の特性を活かす戦術を使わない手は無い。

「そうだな、射手の特性を活かしていかない手は無い」

「でも、村上先輩はわざと隙を作ってカウンター狙いの場面を作っていましたし、弧月とレイガストの二刀流で防御も固いので、なかなか防御の隙を狙うのは難しかったと思います」

 空閑との戦闘での何気ない敵の誘い方には感心した。自分だったらその釣りに引っかかっていたと思うと、それを行った村上も、引っかからなかった空閑も納得の実力である。

 特に村上は戦闘が好きだという戦い方よりも、守るものを持つ人の戦い方だった。一か八かの賭けのような戦い方ではなく、一つ一つ確実にこなしていく堅実な戦い方だった。そういう戦い方の人は本当に隙がない。だからこそ隙を作らせてそこを突く戦い方が必須となるのだが、それでも崩せるとは思えないほど洗礼されていると思う。

「確かに攻撃手上位メンバーはなかなか隙を見せないし、特に鋼は慎重派でもあるからな。隙を見せたとしても釣りの可能性が高い。それでも完璧な人間など居ないから、地形やその時の流れを利用して防御を崩させて攻撃を当てることも出来る」

「はい

「何事も実戦経験を積むことが大切だけどね。次のランク戦前まで特訓に付き合ってあげられたら良かったんだが…」

 嵐山は本当に残念そうにそう言った。広報担当の嵐山隊はいつも忙しそうであるし、現状忙しい理由の一端が自分の発言にあるのだ。だから今回忙しい合間を縫って特訓をつけてくれただけでも感謝している。普通ならばB級隊員にA級隊員がこんな風に接してくれるというのが珍しいのだ。その点に関しては約束を取り付けてくれた烏丸にも感謝しなくてはいけない。

「いえ今戦略を教えていただいただけで十分です。それに、今嵐山隊が忙しいのは僕の所為でもありますがら…」

 申し訳ない気持ちでそう伝えると、不意に頭を撫でられた。

 驚いて嵐山の方へ顔を向けると、いつもの穏やかな笑顔がそこにはあった。

「そんな顔をするもんじゃないぞ。それに君の所為だなんて思ってはいない。界境防衛機関の新規隊員が増える事は嬉しい事だからな」

「…はい

「この後の訓練の当てはあるのか京介はバイトで忙しいだろう」

「えっと、烏丸先輩が出水先輩にも話をつけてくれたので、そちらでも特訓してもらおうと思っています」

 本格的な射手の戦い方を教えてほしいと伝えた時、本職の人間に頼めるだけ頼んでおくと言われたが、まさかA級の面々に教わる事になるとは思っていなかったので、告げられた時には驚いたが、納得の人選であった。

 出水はA級一位の射手だという事もだが、なにより大規模侵攻の際に間近でその技を見たのだ。高難度の技を軽々と操るその姿は凄いと素直に感心し、見入るものがあった。すぐにあんな風になるとは到底思っていないが、あんな風に戦えるようになりたいとは思う。

「ほう…出水にか。確かにうちでは射手というよりも銃手寄りの連携的な戦術になってしまうからな」

「前回の試合で、合成弾の力を目の当たりにしました。使いこなせるとは僕も正直思っていないんですが、それでも習っておきたくて」

「三雲君のいいところは、自分の力量を分かってるところだな」

「え…

 嵐山の言葉の意図が計り切れず、間の抜けた声がこぼれてしまった。

「戦闘についてだけじゃなくて、普段の行動についての判断なんかも、自分がどう動けるか、動いた先がどうなるのかきっちり判断している」

「でも、いつも周りに迷惑ばかり掛けています」

「迷惑だと感じていない人間も居ると思う。それに、それが分かっていても信じる道を曲げずに突き進めるのは美徳だと俺は感じるよ」

 初めて嵐山と対面した学校での近界民騒ぎの時も、大規模侵攻の時だって、自分の行動を追及されたし責められた。けれど、やっぱり自分がそうすべきだと思ったことから背けることは出来なくて、迷惑をかけると分かっていても、きっと何度でも同じことを繰り返すのだ。そういう人間だって分かっている。

 それをそんな風に背を押すように言われるのは、後ろめたさと感謝と複雑な思いが混ざる。

「そう…なんですかね。嵐山さんに言われると自分のしてきた事が全て正しいんじゃないかと思えてきます」

「実際にどうかは分からないが、俺が見てきた三雲くんの行為の中で間違った行動をしたって事は無いと思う。これから向かう特訓だって、現状では無意味かもしれないと自分で分かっているけれど、それでも今の自分に必要だと思った事なんだろう

「はい、隊の為になる事は一つだって妥協したくないんです」

 みんなが一つの遠征という目標の為に、頑張っている。空閑にも千佳にも才能があって、隊の中でもきちんと活躍している。修はといえば、隊長として戦略を練ったりチームをまとめたりといった事を行なっているが、それだけじゃ足りないと思う。リーダーとしていざという時にも使える人でありたい。だから、足を止めている暇など無いのだ。

「…ちょっと妬けるな」

「え…

 ぼそりとつぶやいたその言葉の意味が分からず、間の抜けた返しをしてしまった。

「隊の為に行動することは悪いことじゃない。俺も自分の隊の事は好きだし、隊のみんなの為に何かしたい気持ちは強い。だけど、そうだな…三雲くんにそんな風に思われているメンバーが少し羨ましいよ」

「羨ましいだなんて、…変ですよ」

「そうかなまあ、俺が君の隊に入るなんてことは出来ないから、これはただの独り言なんだけどね」

 言われたことを脳で処理しきれずに、驚きと疑問とで修の目は丸くなる。

「へっ、変なこと言わないで下さい、冗談でも。嵐山さんと同じ隊になんてなれる訳ないじゃないですか。しかも僕の隊に、だなんて」

「んだって三雲くんの部隊はあのメンバーで遠征に行くことを目標としているんだろうだったら君を引き入れるよりは君の隊に入るって想像した方が自然だろう

「そんな想像すること自体おかしいですよ」

 何を言っているのだろうかこの人は。たとえ冗談だとしても、A級部隊の隊長、しかも外部にも内部でも人気のある嵐山隊の隊長が言っていい話じゃない。そんなこと想像するのは、ただの隊員同士の雑談の域を超えてしまっているのではないか。

 たとえここに二人しかいなくても、だ。

「目標に向かってずっと頑張ってるから、それを側でサポートしていたいと思うんだ。だから本当は今日だけじゃなくて、もっとずっと特訓に付き合って居たいと思う」

 修の動揺など気づかない様子で、嵐山はその優しくて甘い言葉を続ける。

「実際はそれが出来なくて残念だけど」

 にっこりと笑ってそう告げた姿に、ずるいと思う。

 でも、そんなのはこの人は後輩には誰にだって言うのだろう。そう思っていないと、自分が特別だって勝手に勘違いしてしまう。そんな事は無いって、自分の勘違いだって、修は自分を抑え込む。でも、そんな薄っぺらい防壁では彼の言葉は防ぎきれるはずがない。

「でも、まだ三雲くんとは短い付き合いだけれど、君がチームの為に頑張っていることを、俺はちゃんと知っているよ」

 別段時別な言葉だったわけじゃない。玉狛の先輩達だって、修が努力してランク戦を勝ち抜いていることを知っているし、褒めてくれている。

 だから、本当に、後で思い返しても理由なんて分からないのだけど、この時の自分はとてつもなく大きな衝動を受けて、言葉にするしか出来なかったのだ、その思いを。

「好きです」

 そう、自然に、口からこぼれた。

 ずっと言ってはいけないと思っていたその言葉が。

 伝えるはずの無かった言葉が、自然に、躊躇いもなく、するりと口から飛び出した。

 だけど。

「…ごめん。今のは無かったことにしてもらえるかな」

 落ち着いた、初めて聞く、淡々とした嵐山の声だった。

 その声に修はハッと我に返る。取り返しのつかない事をしてしまったかのように。笑って冗談で返すわけでもなく、疑問をぶつける訳でもなく、その言葉の真意を理解したうえで返された淡々とした返答は、すべてを物語っていた。

 それは言うべきではなかった言葉であると。

「すみません、なんでもないです」

 自分の愚かさに気が付いて、早口で弁解する。全然なんでもなくは無いのだけれど、この場に居続ける勇気は無かった。

「そろそろ出水先輩との訓練時間になるので失礼しますね」

 言い訳じみた言葉を残して、一度も振り返り、その表情を見ることなく、訓練室の扉を開いて逃げるように出て行った。

 それはもうすでに、振り返る余裕など無いほどにぐちゃぐちゃした感情が渦巻いていたからであり、ほかの嵐山隊のメンバーにきちんと挨拶する余裕も当たり前に無かった。

「ちょっ…三雲くん!?

 途中で誰かに声を掛けられたような気もしたが、それを確認する余裕はなく、誰もいない一人になれる場所を求めて、ただただ走り続けたのだった。


(続く)