飼い犬に噛まれた左手
犬飼澄晴が鳩原未来という存在を認識したのは彼女が二宮隊に入ると聞かされた時だった。
業務連絡的に話に聞く彼女の情報によると犬飼と同じ学校の同じ学年のようで、そんな界境防衛機関隊員が居たっけと記憶を探るが、その時にはついぞ思い出すことは叶わなかった。
犬飼は誰とでも分け隔てなく仲良くする事を得意としているし、だからこそある程度は人の顔と名前を覚えている方だ。実際に会ったことが無い人物でも人の話に上がる人物であれば名前やその特徴を覚えていて、初めて会ってもそうと思わせない雰囲気になる事も多い。
だがしかし、鳩原未来という人物については一切知らなかったのである。
もちろん全部の界境防衛機関隊員を記憶しているわけでもないし、同じ学年とはいえまだ入学してから数ヶ月しか経っていないのだから、知らない人物が居るのも不思議ではない。
なのだが、なんとなく違和感を拭えなかった。
鳩原入隊の話を聞いたその日は、本人に用事があるからという理由で顔合わせには至らなかった。まだ手続きも最中との事で、また後日正式に挨拶と顔合わせをする事になった。
だからその日を待てば良いのだが、犬飼はその喉に引っかかった魚の骨の様な違和感の正体をすぐにはっきりさせたかった。
ポジションは狙撃手だと言うし、同学年の当真に話を聞けば少しは何か分かるだろうと彼を探す事にした。当真は不真面目そうに見えて任務や訓練をサボったりしないし、家に帰りたくないのかいつも出来るだけ本部に居るようにしている節がある。
だから隊室か訓練室かラウンジに居るだろうと当たりを付けて探していたがビンゴだったようで、すぐにラウンジでその姿を見つけた。
そこには当真の他に国近と今の姿もある。
「なにしてんの?」
「あ、犬飼君だ。助けて〜」
だらだらとするように机に頭を傾けていた国近が一番に反応する。その腕の下には教科書とノートが開いて置かれている。大方テストの為に勉強会をしているといったところだろう。
「人を当てにしないで、ちゃんと自分で解く」
「はーい」
今に注意されて国近は頭を上げてペンを持ち直した。どうやら自分でやらなくてはいけない事はちゃんと理解しているようだ。とはいえやりたくなくて助けを求める気持ちも分かならくない。
「この前の中間テストでこの二人の成績が悪くって色々大変だったから、次の期末テストに向けてちょっと勉強を見てあげてるの」
「今は教えるの上手いから助かってるってわけ。要点まとめるのも上手いし、覚えること少なくてホント助かるわ」
「はいはい、ありがとう。解き終わったなら次もあるからね」
「えー、犬飼来たしちょっと休憩にしようぜ」
「そういって休憩ばっかり取るでしょ」
バレたかという顔で当真はあからさまにガクッと肩を落とす。確かに教える側としてはいつ終わるか分からない非効率なこの状況を早く終わらせたいのだろう。ずっと監視付きでの勉強会などゾッとするが、それに付き合う方にも同情する。
もともとこの二人の頭が悪い(学校の勉強に限ってだが)のは知っていたが、それは自業自得であるし、なぜ今が面倒見ているのだろうか。
「ねえ、なんでこんな面倒臭いことしてんの?」
「赤点になると追試があるじゃない」
「そりゃね」
「A級の二人が長期的に不在になるのは困るからってどうにかしろって事で、色々あって私が面倒みる事になったの。…不本意だけど」
なんというか完全にとばっちりというか、今がなんだかんだ言って人が良いという事は分かった。確かにそう考えると、学力的に問題児が居る太刀川隊は毎回テスト前には大変そうだし、実質的な戦闘員が当真だけの冬島隊も何とかしないといけない状況なのだろう。
「そういや犬飼、なんか用事でもあったのか?」
今に言われた通り問題集に手を付けながら当真は質問を犬飼に投げかける。犬飼もこの光景が面白くてすっかり当初の目的を忘れていた。
「そうそう、当真を探しててさ」
「俺?」
「ま、でも今でも国近でもいいんだけど」
「え〜?何の話?」
ここぞとばかりに名前を呼ばれた国近は顔を上げる。こちらも勉強を中断する口実を探っていたらしい。
「すぐ終わる話なんだけど、…鳩原未来って知ってる?」
聞こうとしていた事を直球で質問する。当てにしていた当真はやはり同じポジションなだけあって知っている様だ。
「そりゃ知ってるけど、急にどうした」
「いや、うちの隊に今度入るらしいんだけど、どんな奴か知らないから会う前に誰かに聞いておこうと思って」
「へー、あの鳩原が二宮隊にね。まあ自然と言えばそうだろうけど」
その含みのある言い方が気になった。狙撃手の内では有名な人物なのだろうか。
「それどういう意味?」
「鳩原って東さんの弟子のうちの一人なわけ。んで、二宮さんって前は東隊で東さんにはお世話になってたし、紹介なんだろうなって思っただけさ」
「あの鳩原がって言ったけど、それは?」
「…鳩原は、すごい精密射撃の力を持ってる。のわりにどこの隊にも所属してなかったなと思っただけさ」
東の紹介なのも、腕が良い事も先ほど隊長の二宮から聞いていた話だ。だから当真の言っていることは正しい。だけれども何かがまだ引っかかったままだった。
当真だって狙撃手だからといってすべての隊員を記憶しているわけでは無いだろう。鳩原は精密射撃が得意だと言うことだし、訓練で高得点を取るから記憶に残っているというのも分かるが、気にしている風なのが不思議なのだ。興味があるからとか良いライバルだからとかそういうのじゃない何かがある気がした。
「それ以外にも何か理由があるでしょ」
「え〜、そこまで聞いちゃう?けどなー、これは俺が勝手にそうだと思ってる部分だから人に話すはなしでも無いんだよな」
当真は躊躇う様に頭を掻きながらどうしようかと思案しているようだ。
「同じ隊の隊員になるんだから本人に聞くのが一番いいと思うな。あえて言うなら鳩原は欠点を抱えてる」
「欠点…」
そんなマイナスになる部分を持っている人物を隊長の二宮が引き入れるのだろうか。それとも知らないまま勧誘したのだろうか。謎は深まるばかりである。
「ていうかさ〜、鳩ちゃんの事は犬飼君の方が詳しいんじゃない?」
問題を解く気をなくしたペンをクルクルと回しながら国近はそう言って話に割って入ってきた。
「どういうこと?」
知らない人物だからこそ、こうして知っていそうな人に聞いて回っているのだ。国近の言い分はちょっと理解が出来なかった。
「だって犬飼君と鳩ちゃん同じクラスじゃん」
同じクラス?
一瞬国近の言う言葉の意味が理解出来なくて思考が停止する。そしてそれが学校のクラスの事と分かってからもその事実が本当の事なのかは分からなかった。
(中略)
チャイムの音で目を覚ました時には既にホームルームが始まっていて、クラスのメンバーが揃っていた。そう、目的の鳩原未来も既に静かに席に着いていた。
背後からしかその姿を確認出来ないが、身長も体型も一般的な女子と変わりなさそうだった。違う点と言えば、髪は方肩にかかる程度の長さで癖がありそうな風で、スカート丈は膝より長そうである。クラスの大半がスカートを短く折り曲げている(校則違反では無い)のに対して、買ったまま着ているというのはある意味目立ちそうなものである。
とはいえ今までその存在を気に止めていなかったのだから、案外気にするほどの事でも無いのかもしれない。
そうやって鳩原未来を一日観察していていくつか容姿以外にも分かった事がある。
一つ目は常に猫背であり、極力人と視線を合わせないようにしている事。授業中も真面目そうに講義を聞いているのだろうが、あまり前を見ようとしない。黒板を写すのも基本的には先生が板書を初めて背中を向けた時である。だから想像通り発言などは一切しなかった。
そして二つ目は誰とも話をしない事。移動中も休み時間もお昼ご飯の時でさえ一人で居た。業務的な会話くらいはするのだろうが、この日はついに誰かと会話するところを目撃する事は無かった。そう思うとクラスも違うのに友達でいる国近は凄いのかもしれない。
想像していた性格よりもマイナス方向に凄い事が分かってちょっと驚いてしまっている。なんというか、こんなコミュ障のかたまりみたいな人物が隊で一緒にやっていけるのかという不安が込み上げてくる。とはいえ腕は確からしいし、そんなつまらない理由で追い出そうとは思わないが。
じろじろと不躾に観察し続けてしまったが、気が付いていないのか気にしていないのか放課後まで特に何も言われ無かった。他人と話すことを極力避けている様なのでそれも当然かもしれないが。
とはいえ隊員になるのだから、こちらがそうしている様に気にならないのだろうか。もしかしたら慣れ合う必要が無いと思っているのかもしれない。
どの隊も隊員同士で仲良くやっている風だが、業務的な隊があっても不思議じゃない。二宮隊も強い隊員が集められた隊であり、そういう雰囲気の隊でもおかしくは無いが。犬飼としてはせっかくだから楽しく任務やランク戦をしたいと考えている。
長かった授業が終わり、放課後になっていた。当初から決めていた通り、鳩原に声を掛けて一緒に本部に行くかと誘う為に彼女の席へ向かう。
「こんにちは」
「あ…えっと、こんにちは?」
鳩原は声を掛けられて一瞬びっくりしたように体を硬直させるが、一瞬こちらを見てから視線をどこか別の場所に移して挨拶を返した。なんというかそこまで人と目を合わせるのが嫌なのか。
「オレのこと知ってる?」
ここまであからさまに人と関わらない様にしているのだから、存在を認知されているか怪しい。なんて言ったって犬飼自身昨日まで鳩原の事を認識していなかったのだ。
だが、その予想は外れる。
「犬飼君…だよね」
おどおどした声で鳩原は正解を出す。その声色はあっているか不安というよりも、話をする事に対しての様である。
「うん、そう。知ってるんだ」
「あ…えっと、クラスメイトの顔と名前くらいは」
「へーすごいね。俺なんてきみの事昨日まで知らなかったよ」
ちょっと冷たかったかもしれないが、自然にそんな事を口にしていた。国近に注意されていたのにうっかりだ。けど、そうしてしまう雰囲気が目の前の鳩原未来という存在にはあった。
「あたしはあんまり目立つ事は好きじゃないし、犬飼君はクラスでも目立ってて人気者だし」
だから仕方ないよと、当たり前の様に言う。
「騒がしくしてる自覚はあるけど、人気者って言われるとそんなこと無いと思うけどね」
「いつも話題の中心に居ると思うけど…。あたしはあんまり人と話すのは得意じゃないけど、周りの話を聞くのは好きだし」
「いつもそうやって聞いてるの?」
単純に興味本位の質問だった。周りの話を聞くのが好きという事は、自分以外の人間に興味が無いと言う訳では無くて、単純に他人と関わるのが苦手なだけなのかもしれないと思ったからだ。狙撃手は職人気質な人物が多いし、そういう点では間違いではないのかもしれない。
しかし鳩原はその問いに関して申し訳なさそうな素振りをする。
「あの…ごめんなさい。聞き耳を立てるような事をして」
「そういう意味で言ったんじゃないんだけど。それに別に変な話をしてたわけじゃないし…してないよね?」
犬飼も男子高校生なのだ、ちょっとアレな話題をしていたかもしれないが、さすがにクラス内でそこまでの話はしていないはずだ。
「どういうのが変な話になるかは分からないけど、多分してないと思う」
なんとも曖昧な返答である。犬飼もどう切り替えしていいか分からなくなり、しばしの間謎の沈黙が流れる。この空気をどうしようかと考えて、そういえばと当初の計画を思い出す。どうせ本部で顔合わせする事になるのだから、一緒に向かえばいいと考えたのだ。
「そうそう、この後って本部に直行でしょ?」
「そのつもりだけど…」
「なら一緒に行こ」
こくりと頭を縦に振り、鳩原は自分の荷物を抱えたので犬飼も共だって人の少なくなっていた教室を出た。
(続く)
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